笹屋の創業

江戸時代中期の天明元年(1781)、31歳の森本善七は、名古屋の大久保見に笹屋の号で小間物屋の店を構えた。世は十代将軍徳川家治の時代。森本本店の前身の誕生である。
後に鉄砲町と名を変えたこの地は、北の名古屋城を頂点として、城下町へと続く本町通りを南へ直進し、広小路を越えた場所にあった。現在の中区栄2丁目、白川公園の北向かいにあたる。
本町通りは名古屋の開府以来、呉服屋や糸屋などの御用達商人たちが店を構えるメインストリートであった。
笹屋が開業したのち、鉄砲町は江戸中期から幕末にかけて、反物商や小間物商、袋物商などが立ち並ぶ、活気ある界隈に成長を遂げていく。
笹屋が扱ったのは、女性の髪を飾る 簪・櫛・笄である。この頃の女性の髪形は、貴族風の垂髪から結いあげる日本髪が一般的になり、様々な髷まげが考案されるようになっていた。
素材も木や竹から、鯨の髭ひげ、象牙、鼈甲、銀などが使われるようになり、蒔絵や珊瑚、水晶など、装飾性の高いものが用いられるようになっていた。
美しい髪飾りは女性のあこがれである。そうした商売を選んだ善七は、商才とともにセンスの良さと優れた審美眼も持ち合わせていたのだろう。

尾張藩御用達商人となる

初代善七は子どもを幼い時に亡くし、知多郡大野(現・常滑市大野町)の萩原宗平の子どもを養子として迎えた。萩原家は味噌溜醸造業を営んでいた旧家であったといわれている。
二代善七と初代善七の年齢差は61歳。初代善七が存命中に養子を迎えたのであれば二代善七が 4歳までのことである。
二代善七が成長するまで指南していたのは初代善七の妻や番頭であったのかもしれない。二代善七は簪などの他、袋物、喫煙具、貴金属、財布、帯留めや半襟といった和装の小物なども取り扱い財を築いたようだ。
二代善七の名が知られるようになったのは、天保11年(1840)につくられた「名古屋分限見立角力」という長者番付の東前頭45番目に載ってからである。
幕末、明治維新の動乱にあった慶応4年(明治元年、1868)の『名古屋商家集』によると、森本本店は尾張藩の御勝手御用達格となっており、使用人23人、資産5,000両とある。この時の格付けは御用達商人353人中、筆頭の関戸哲太郎から数えて29番目であった。

質実剛健な名古屋商人

二代善七は、尾張藩の御勝手御用達格に任命されるとすぐに尾張藩勘定奉行所内に設けられた国産係の国産御用達にも任命された。 ここでいう国産品とは尾張国の産物という意味である。森本本店は二代善七によって大きく発展を遂げ、現在の桜通、広小路、覚王山などにかなりの土地を持っていた。
大坂や江戸の商人は大名へ高利で金を貸し付けていたため、版籍奉還によって収入を減らした大名が返済金を焦げ付かせたのに対し、尾張商人は利益のうちの6割で土地を購入し、借家などを造って家賃収入を得ていた。こうした堅実経営は尾張商人の特徴だといわれている。
明治4年(1871)に廃藩置県が行われ、名古屋県ができ区という行政区分が生まれ、区長、戸長が置かれることになった
二代善七は岡谷祐紀とともに第一大区第七区の戸長を務め、多くの事業の開発にあたった。名古屋博物館の設立に際しても副頭取役に推薦された。 さらに曹洞宗の檀家として信仰心も厚く、学問を志すものに対しては援助もしていた。
後年、曹洞宗大本山永平寺の貫主として、明治の高僧としてその名を輝かせた森田悟由禅師が信仰の道に入ったのは善七の感化を受けたからだという。明治の元勲伊藤博文が森田禅師に深く帰依したことは有名な話である。

数々の企業設立に関わった三代善七

三代善七は地元財界との結びつきを深め、多くの企業の役員や社長を務めた他、公職にも就いた。
明治14年3月に設立された名古屋商法会議所(明治18年に名古屋商工会議所に改組)発起人、議員になってからである。
明治15年に私立の銀行として伊藤銀行に次ぎ名古屋で 2番目に設立された名古屋銀行の設立発起人にも名を連ね、設立時は副頭取、その後第4代頭取も務めている。
名古屋銀行は昭和16年(1941)に伊藤銀行、愛知銀行と合併し東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)となった。なお、現在の名古屋銀行とは別の銀行である。
三代善七は政界でも活躍した。明治14 年(1881)の第1回県会議員と第2回県会議員を務めている。
後の名古屋証券取引所の前身である株式取引所が設立されると頭取に就任した。
明治22年に名古屋市が誕生すると9年間にわたり市会議員を務めた。大正元年(1912)から昭和3年(1928)に亡くなるまで貴族院議員(現在の参議院)も務めている。
森本本店は明治13年(1880)に東京へ進出し、短期間での驚異的な売上を成し遂げる。さらに日清戦争後の明治30年には、勅使河原商行の名前で台湾の台南市へ進出し、デパートを経営した。
名前は三代善七の娘婿である勅使河原欽也の名前からつけられた。繁昌していたが、明治37年に日露戦争が勃発し、勅使河原が戦死してしまった。これにより台湾のデパートは閉鎖することとなった。

カタログ「森本本店商報」による通信販売

三代善七の頃から、大衆品的な商品も扱うようになった。昭和4、5年頃から「森本本店商報」という名で通信販売用カタログを毎月発行した。
写真をふんだんに使い、品名と価格を記載し、全国の小売店へ発送した。さらに中国、台湾、南洋諸島、樺太の洋品雑貨商へも送り、注文を取った。
当時、通信販売を手掛けているところはあまりなかった。やがて通信販売が軌道に乗ると注文が殺到し、社員は伝票の整理、荷造り、発送など徹夜の作業が続くこともあった。
正月休みに映画へ出掛けても、仕事が気になってゆっくり鑑賞することができなかったという社員もいたという。
売り上げは10年で約5倍になった。通信販売が人気になった理由は、豊富な品揃えと注文の手軽さにあった。簪などの小間物だけではなく、 いわゆる西洋雑貨といわれたものの比率も高まり、ハンカチやハンドバッグなども取り扱うようになった。この通信販売で取扱品目が大幅に増えている。
そうしたなかで扱いを始めたものにセルロイド製品がある。 セルロイドは色彩がきれいなうえ加工しやすいため、櫛・簪・石鹸箱・化粧セット・帯揚げなどいろいろなものが作られた。
四代善七は昭和15年(1940)セルロイド生地を加工して櫛・石鹸箱・湯桶などを製造する東海セルロイド工業所を設立し、会長になると同時に愛知県セルロイド工業協同組合の理事長としても活躍した。

火災と空襲で開店休業状態

昭和16年12月、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、ついにアメリカとの間で戦争が始まった。多くの若者が徴兵され、店も縮小せざるを得なくなった。 昭和19年 6月半ばの暑い時期、鉄砲町の店の前に積まれたセルロイドが自然発火して森本本店は全焼してしまった。 さらに昭和20年3月には空襲によって森本家の本宅も失った。東京にあった店も空襲で焼失した。ついに森本本店は開店休業状態となった。 昭和20年(1945)8月、戦争が終わり、復員してきた社員は森本本店の再興を訴えた。政府は生活物資不足による激しいインフレを打破するため新円切り替えを行い、さらに財産税法、戦後補償特別措置法が新しく制定された。火災と空襲によって店も住まいも失ったものの森本家にはそれなりの資産があったが、 これらの政策や法制度によってその多くを失い、生活もままならなくなってしまった。そこで四代善七は森本本店の再開を決意する。
幸いにも、昭和の初め頃に大須(名古屋市中区)万松寺商店街に建てた貸ビルが戦災による大きな被害もなく残っていたため、補修・改装し、昭和21年7月に商売を再開した。 一方、東京の店は番頭をしていた人に運営を任せ、昭和23年から株式会社森本東京店の名前で別法人とした。 戦争で店も家も商品も失ったとはいえ、森本本店には尾張藩御用達商人以来の伝統と信用があった。人々は平和な時代を味わうかのように商品を買い求め、商売は軌道に乗り始めた。

個人商店から株式会社へ

清須にあった東海セルロイド工業所は戦災を免れ、櫛、湯桶、石鹸箱などのセルロイド製品がよく売れた。 1日に2回も清須へ商品を取りに出掛けなければならないほど売れたこともあったという。その後も売り上げは順調に伸び、 森本本店は昭和24年(1949)5月、個人商店から株式会社組織にあらためた。資本金は100万円であった。 戦後は小間物と呼ばれる商品の幅も広がり、装粧品と呼ばれるようになっていた。装粧品は一般的にアクセサリー関係のものが多いが、 それだけではなく、様々なものの総称としても呼ばれていた。アクセサリーへの関心が高いのはやはり女性である。 購買者層にあわせ、昭和初期から扱っていたハンカチ、ブラジャー、コルセット、ストッキングなど、衣料品や女性用下着の幅をさらに広げていった。
商売が軌道に乗ってきた昭和 28年(1953)8月、四代善七が61歳で亡くなった。森本敏郎は次男であったが、長男の肇は学校の教師をしており、 会社経営にはあまり関心がなかった。敏郎はまだ学生で、東京商科大学(現・一橋大学)の3年生であったが登記上は代表取締役となった。 実務は専務取締役をはじめとした役員に任せることになった。森本敏郎は昭和29年に大学を卒業するが、在学中に患った病気のため、 名古屋へ戻って来たものの入院治療に専念しなければならなかった。 病気が回復し、森本本店へ名実共に入社したのは昭和32年4月、その年の9月に箱根小涌園で小売店の方々を招いて新社長就任の挨拶を行った。

取り扱い品目の充実
商店経営相談室で小売店を援助

昭和28年(1953)放映の映画「君の名は」が大人気となり、ヒロインに倣って頭から肩までスカーフを巻く「真知子巻き」が大流行していた。 森本本店でもこの年からスカーフ、ハンカチ、靴下など衣料品の取り扱いが徐々に増えていった。 この頃、森本本店の主な取引先は化粧品店、次いで洋品店、呉服屋、袋物屋などであった。 当時の化粧品店では化粧品のほかに櫛、ブラシ、歯ブラシ、ハンカチ、ネッカチーフ、スカーフ、マフラー、さらには女性下着も扱っていた。森本本店にも化粧品店からブラシ、化粧パフ、化粧器具関係、下着類などの注文が増えていた。
鉄砲町、末広町およびその周辺の雑貨問屋でつくられていた名古屋中心問屋連盟に属する本通問屋協同組合の連鎖市部会によって 連鎖市が定期的に開かれていた。 各問屋は連鎖市にあわせてそれぞれ独自の催しを行った。森本本店は昭和33年(1958)から小売店経営の一助となる経営相談室を開いており、 こうした経営相談を行っていたのは森本本店だけであった。また、昭和31年に鉄砲町、末広町にあった有力な問屋8社で「名秀会」を結成、研究会を開催した。 さらに毎年春と秋には共同企画で名古屋駅前にあった豊田ビル6階ホールを第1会場として、2日間にわたり共同展示会を行っていた。名秀会の活動は、昭和44年まで続いた。

衣料品スーパーとの取引を開始
木造からコンクリート造りの新店舗へ

昭和35年(1960)、資本金を100万円から400万円に増資した。 さらに8月には中区栄町にあった千代田生命ビルの8階ホールで森本本店単独での秋の新作展示会を開催した。 11月には豊田ビル2階ホールで、森本本店をはじめ地元装粧品の有志11社での第1回装粧品見本市も開かれた。 この当時、森本本店が取引を行っていた小売店は、東は静岡県、西は三重県、滋賀県、北は北陸 3県が中心であった。 売り上げは順調に伸び、社員も増えていたが、収支の計算はソロバン頼りで、勘定元帳に手で書き込んでいた。 そこで事務処理の合理化を図るために、昭和36年(1961)頃に日本NCRから会計機を購入した。電卓が普及する以前のことである。
昭和37年(1962)に衣料品スーパーの株式会社西川屋との取引が始まった。当時、西川屋は販売品目の拡大を図っており、 森本本店のほとんどの商品を扱うようになっていった。後の株式会社ユニーである。 名古屋や関東など各地で創業した衣料品スーパーは、その後数社で合併し、量販店となっていく。 昭和38年からは株式会社岡田屋との取引も始まった。昭和45年、岡田屋はジャスコ株式会社、さらにイオン株式会社となり、現在も全国への店舗拡大を続けている。 また、森本本店はそれまでの木造社屋から鉄筋コンクリート造りの中2階付き5階建てビルに新装改築した。

キャラクター商品の登場
アメリカビッグストアの視察

昭和39年(1964)、週刊少年サンデーで「オバケのQ太郎」の連載が始まった。 アニメ放映も開始し人気が高まるとともに、オバQをはじめとするキャラクター商品への需要が高まった。 森本本店でも売り上げの柱の一つとなり、様々なキャラクター商品を扱うようになっていく。 キャラクター商品はルームアクセサリーという分野で扱われた。
取扱商品の種類・数もさらに拡大を続けた。昭和40年代に売り上げの大きな柱となっていたのは インナーと呼ばれる女性の下着関係や、スカーフ、ハンカチ、手袋、マフラーといった服飾関係であった。 服飾関係のなかでもスカーフ、手袋の比率が高まっていった。 そしてインナーや服飾関係と並行するように売り上げが伸びていたのが、ブローチ、ネックレス、指輪などのアクセサリーであった。
名古屋市商工会議所の問屋経営研究会がアメリカ流通機構視察団を組織して、昭和44年(1969)11月にアメリカ のビッグストアの視察に旅立った。森本敏郎も視察団の一員として加わった。 この視察によって、これからの日本にもアメリカ式の大型総合スーパーが定着していくことを確信し、 その後、国内の量販店との取引にさらに力を入れるようになった。

東京進出
改革の実行

関東方面で売り上げを伸ばすため、昭和52年(1977)4月、台東区柳橋に所長以下駐在員4人の東京営業所を新たに設置した。 これまでのメーカーから仕入れた商品を販売するだけではなく、商品企画の重要性を認識し充実させていくこととなった。 高度成長から安定成長へ変化していく時代とともに、売れ筋商品も変化する。森本本店はファション性の高いものに徐々に力を入れていくようになる。 量販店との取引増加やあらゆるニーズに対応するため、事業部制を設置。要望に答えるためデザイナーの採用を強化した。
平成2年(1990)には会社設立以来最高の売上高88億3,700万円を達成、社員数も200人近い大所帯となっていた。 しかし、平成3年(1991)からは売上が減少し始めた。消費が低迷し多くの専門店が廃業していき、売上は急速に下降線を辿っていった。 量販店との取引で売上をカバーしていたが、平成6年(1994)とうとう純利益が赤字となり、翌平成7年には売上高が80億円を切った。 平成11年には再建計画を策定、その骨子は経営陣の一新によるマネジメントの強化、取引先と商品の絞り込み、不動産売却による借入金の圧縮、人員削減の4つであった。 取引先と取扱商品を絞り込み取引先の数は3分の1に、平成12年4月には新役員の選任、平成13年には本社の土地、建物を売却。 また、平成10年からは人員削減を敢行していた。社員本人の意思を尊重しながらリストラを進め平成15年には50人となった。

メーカー機能を備えた問屋へ

問屋の仕事は基本的に様々なメーカーが扱っている商品の中から、 売れそうなものを仕入れて小売業へ販売するが、小売業から頼まれた商品 を探し出して販売する。多くの問屋にこうした考え方がバブル崩壊の時期まで残っていた。 森本本店の販売先は専門店から量販店へシフトしつつあり、バブルが始まる少し前からファッション傾向などの知識を 持った人材やデザイナーの採用を強化していた。こうしたことが一つの下地となり、 さらに経営再建計画の過程、売れる商品をより利益率の上がる方法で仕入れることに着眼。 付加価値を高めるには消費者動向を敏感に商品へ反映させることが大切であり、自ら企画して作ることで可能となったのである。 こうして、平成12年(2000)年頃から問屋業を兼ねながらメーカー機能を持つようになりだした。
平成17年(2005)1月に本社を愛知県一宮市に移転。3月には創業家以外で初めて岡田康男が社長に就任した。企業再建計画を立ててから5年、森本本店の業績は伸びていた。 平成18年には東京支店を中央区東日本橋に移転、自社ビルを購入した。また、本社近くで2つ目の新たな物流倉庫を購入した。